対話について  非論理性と論理性、加えて垣根を超える瞬間について

・非論理的な事についての話
ある事物、特定の時代の人だったり馴染み深い植栽だったり、に対してより良く思い起こす事をし続けると、ある時、こうなった、こうであるのが正しいんじゃないのかなって心に浮かぶ瞬間がある。
まぁ私は経験上の出来事をその都度分からないなりに諸々度外視して自分の為に言葉にして記録しているつもりなので、私の思ったことに共感や論理性があろうがあるまいが興味はない。要するに上手く説得したり伝える気はない。私の個人史の記述はまだまだ狭く浅いので他人に伝わっても上手に成功の結果に繋がるとは到底思えないのだ。
話を戻すと、ある正しさが心に浮かぶという体験を執拗に続けていくと論理性を超えてそのもの自体に自分が成り代わる瞬間がある。
テトリスぷよぷよや設計をやり過ぎると夢にまでリアルに出てくるようになる感じに近い。そのものに自分の心を映し続けると心が移ってしまう感じが正確な記述かと思う。
心が移り変わってしまうと、それはそれで危険なのだが、そのものがどう動くか動いていくかが目に浮かぶ時が出てくる。私は時に俯瞰してみたり、そのものの視点や五感から感じ取ったり、してしまう。
この一連の空想は、全て私がある事物を想定した時の自己投影と言っちゃ自己投影なのだが、何故か全くの嘘とも思えないという実感が伴う。
私の心の内を正直に話すとこのような事が私が空想と読んでいるものの実態だ。

現実の区別はそれとは別に行うよう努力している。区別が行われない時、空想により「勝手に」区別を横断する時、はある意味、私は社会不適合者の夢想家である。
ある意味といったのは、空想が現実世界においても一つの正しさを持つ際には、勘が当たったというような事になる。
私のこれまでの経験と事実から踏まえると、どうやら今現在から遠い架空の未来に対して空想という手法は有効に成り得るのだと考えている。
もちろん私にしか当てはまらない実感なので、空想でこうした方がよい、こうなるんじゃないかなという際には自己責任で御願い致します。


・論理的な事についての話
今現在において区別というものは、いつの時代も言われているような事だが、根深い事である。書物を読んでも判るが、ツイッターなどのSNSを見渡して区別というものは存在する。
これらは全て情報伝達の対話の方法である。AとBに対して定義をつけ、区別を行い、その中での文法や暗黙の了解という常識などの定義とも組み合わせて情報を発信する。
特に会話の方法について言えば、他人と自分との区別の仕方は人それぞれ持っているだろう。夢想家だけが定義づけに困るだけである。
他人私とをいったん区別をつけると会話が始まる。会話の始め方は二種類あるように思われる。
ジャンプして一気に核心やゴールを伝えるか、隣のお屋敷に伺う様に門を叩いてこんにちは、からゆっくり状況を伺いながら話を進めるか。
今現在の日常会話がこの二種類の方法をその都度使い分けて成り立っているように思う。
角を立てずに上手く使い分けられる人は分別があると言えるのだろう。時に痛快な一言で場を湧き立てる人を何人か知っている。

・垣根を超える瞬間
正直、痛快の一言をタイムリーに出せる人は羨ましい。大学の同期、元同期には絶対信じてもらえないだろうが、空想を患うまでは私も実はこういうタイプであった。
正直、他人の悪口は面と向かって言い合えたら愉快だぜ。と思っている。更に言えば、ユーモア溢れる感じで言い負かせたら最高です。
昔取った杵柄は置いといて、最近、おじいちゃんおばあちゃん世代か年下と話が合う。時間の流れが自然のまま居られて誰かを活かすようなユーモアが溢れる。
同世代はどこかで競争相手だと私も相手も思っていたのだろう。
何が言いたいかというと、人と私の区別をした会話の後、それぞれが自然なまま輝くような瞬間というものがある。一対多数だとまた少し異なると思う。
前提となる区別の仕方は自分の立ち位置と密接に関わっているように思う。私の立ち位置という前提条件を踏み外した言葉を選ぶと相手に届きづらい。懐の深い人だとそれってどういう意味と聞かれることがあるが、、、
ドンピシャな言葉を相手と私の間に置くことを繰り返すとなんとも楽しいもんだ。


建築設計についても全く同じかもしれない。あるいはもっと膨らませてほかの仕事でも似たような事が言えるかもしれないが、ここでは建築設計に絞ってみる。
建築設計は当然建物を扱う。建物を建てる前後には図面(3D)、模型、パースを元にお金やその建物の活用の仕方や理想像といったイメージを副次的に検証し、積み重ねていく。
この三つのアウトプットから現実をよりリアルに夢想する。より良く思い返すことの効果も、本当に多種多様な論理的な区別も、現実をより豊かにする為に人が淘汰していった結果としてのものである。
先人たちはよく書物などの中でこの事に触れる。夢想しすぎて患うほどなので私の実感はあまり当てにならないが、先ずは仕事のスピードが必要なように思う。
スピードがあればどこかしこには引っかかる。余った時間でできるだけより良い対話の方法であったり夢想しておけば良いのだろうと遅すぎる反省をしてみる。
まぁ自分の現況から方向性見定めて努力するより他ないのだけれど、、、
今現在で一番速いスピードは普段通りの感覚でやるに尽きる。焦ると変な方向で努力するので、無理はほんの少しでいいと思えるようになった。
対話を積み重ねていくと、いろいろ混ざり合って区別が付かなくなるようになる。そこまで無心に進めて振り返ると何か正しいような道のりが出てくる。
私は悪い意味でぶっ飛んでいて、スピードを求めてオーバーヒートもしていた。無理やりスピード出すのは良くない。自然と自分と向き合いだした今が一番早く進んでいる。


夕飯食べたら自己作品集やります。

メモ:1h30min、約2500字 
所感:前より自分の中で書きたいことのイメージがいい感じで言葉になっているように思う。ちっちゃいころの読書量からか思い出せば割と一発で戻らず書けるなー。