技巧と叫び

本日は午後から避暑地の図書館に逃げ込もうとしたのに、肝心のアントニン・レーモンドの本を家に置き忘れてしまったので、昼下がりは違うことを書こうと思います。

 

叫びと歌うことについて書かれたことが以下のリンクです。

中原中也 生と歌

好き嫌いは別として、詩が好きな方は読んだ事がきっとあるでしょう。

 

さて、何について書きたいかと言うと、やはり今の私に無いものに欲望が働くもので、私なりの学問を探しております。何かを深める為にどの方向に進みたいかという事を今は手広く探っている時とでも言えるのでしょう。ここでは叫びと技巧との関係性から、現代の生きた知恵と学問となり得そうな事の関係性を書き記そうと思います。加えて最後に所感を記しておきます。

 

「生と歌」に書いてある通り、人として感情的に振る舞う原始的な表現方法が叫びでしょう。人は集団の中で個々人の叫びをより良く集団の為に使うべく、叫びから歌う事を手に入れます。歌とは何も音楽の歌だけではなく、技巧的なもの、つまり表現するための区別・ルール・制限といったものが存在しまう。具体的には文も構成が定まれば技巧的ですし、その地域やTPOでの会話の仕方も技巧的でしょう。楽器のピアノで演奏する際も鍵盤の弾き方を覚えれば技巧的ですし、身体の動作も所作を覚えれば技巧的です。2人からはじまる集団生活を営む上で、他人に上手く何かをより上手く伝えるには技巧的にしかなれないのです。

そして、技巧的な表現の根本には技巧を使う原動力となる叫びがあるのです。叫びがより上手く技巧的に表現できたものが集団の中で淘汰され、より良いとされる叫びと技巧が規範となっていく。他人の技巧から叫びを推し量り、自己の叫びから技巧に表現している。どちらが先かはどうでもよく、この関係性を検証し、時に区別しそれぞれを吟味する。そうやって学問と人間の実態が形作られて文化となっている。

 

前置きが長くなりましたが、私は現代はもう一度この叫びと技巧の関係を捉えなおさなければならないと考えております。

身体の所作で言えば、何も茶室でなくても、改札の通り方にもスムーズに通る方や綺麗に通る通り方が存在すると思います。前もって自分の動きを予測し、前や後ろの方に気配りして最小限にゆったりと動くことは美しい所作を現代的に考える契機となるのではないかと。

捉えなおすべきという理由には、現代は過去にない機械と人間との関係が存在しているのも一例としてありますでしょう。どんどん別個に深まっております。

技巧(科学的知識)のみでいいじゃないかという割合が増えていった結果として、現代に宿命論的な居場所がないと感じる方が多くなったように思います。

各々の空白が存在すればそれぞれの空白を各々が求めてしまうのは至極自然な流れのように思います。居場所が存在する方はここでいう技巧を求めるのでしょう。

(もう少し言えば、先人たちの動きにより、居場所が生まれだしているといえるかもしれませんが…)

 

後記;

叫びだけでは自分の属する世界で煙たがられてしまいます。私含め各々の黒歴史と俗に言われるやつですね。技巧的でありすぎると何か心が満たされない。人間の強欲について考えさせられます。素直になるのは中々に難しいのですが、素直な時は今現在の視点を忘れていない表現になるなぁーと最近よく思います。未来については、~かもしれない、~たい、~て欲しい、~と想像する、などなど。過去は、~だったね、が多用されているなぁーと。

図書館の席取り合戦で敗れたのでポートフォリオとアントニン・レーモンドは夜にでも載せられたらと思います。

 

メモ:1H04min