私的世界定義ー科学的世界定義の積み上げの一助として 1_0 20180724現在_目次

序:

私はその都度の経験から空想や思索する事にかなり耽っておりました。簡単に言えば、心ここにあらずの状態でした。結果を伴わない思索は実益性に欠け、社会的評価はかなり低いと言えるでしょう。しかしながら、アーティストや僧侶などが証明を行わないまま人間の真理というようなものを作品化、言語化し、後世において証明されてしまう様に、空想や思索を淘汰し続けることによって今の世の中で証明できない事物に辿り着くことは歴史的には存在しております。私もそれは人間に与えられた特権だと考えるようになりました。そして、私という人を実験体として自身の経験に対しての思索を行い続けるにつれてある確信につながりました。フランス語のHistoireは歴史と物語の両方の意味が存在しております。学問として歴史を突き詰めると歴史は論理的やその時代の常識的に証明し得ない奇跡や絶望めいた瞬間の積み重ね(物語)が存在するのです。私の空想や思索は私的歴史の私が正しいと思うものに抽象(意味の淘汰)を行ったもので、独自の解釈と言えるでしょう。これを書き記すことはそれ自体では意味が御座いません。本日の目次と後の考察はこの直感めいた確信を科学的や論理的により良く解釈・活用して頂ける方に読んで頂きたいです。

 

主観的経験の物理的記憶と意味性の淘汰の過程について

この世界の成り立ちを理解したいと思います。私が現実生活とパラレルに空想に耽るようになってから現実の時間軸では丁度10年程となりました。もっとも空想の世界(Imaginary Space)での時間間隔は伸縮が可能でしょうからどのくらい捉われ考えていたかは比較対象が無いものなのでよくわかりません。空想の定義は、好奇心と探求心により、自己の経験をより良く思い起こすことや経験同士を繋ぎ合わせた際に心に思い浮かぶ直感的な像を言葉、行動、絵や立体造形によって抽象・捨象するとなるでしょう。抽象的に私という個体を通した自己実験の方法が最終的にどうなったかをまとめれば、私は記憶の箱をImaginary SpaceとPercepective Spaceの二種類に分けて格納し(それぞれ、Imaginary Memory, Percepective Memory)、時に混ざり合い、時に区別しながら私の空想からより良い定義の為の格納すべき抽象を淘汰しておりました。淘汰の方法は現実空間(Physical Space)での個人的知覚(Perspective Perception)からの観測を行い、なるべくそのままPhysical Memoryに入れておきます。必要に応じてImaginary Spaceにて意味性を検証し、淘汰したものをなるべく格納するようになっていきました。区別が取り払われる瞬間が時々現れます。観測事象を科学的論理的に検証するのではなく、主観的個人的に検証するというのは現代の世界でこの方法が本当にその通り行われたかは実証不可能であり、このように書くことは狂人じみております。ですが、問題は、この際のノーテーション(思考の言語的記述方法)と、結果として導き出された私なりの応答がこれより先の世界において有効となり得るか否かという事になります。応答と書いたのは、私という物語を私自身で客観的に観測しようとした結果の報告書のようなものだという事です。ご了承ください。

 

目次:私的応答の結果としての世界の諸原則の次元

 

私的経験を考察する事による次元間の横断現象について

・Projection -次元間の作用変換について

 

私的経験の考察による科学分野の次元

・2要素からなる時間:(Imaginary Time, Physical Time)

・2もしくは3要素からなる空間

・物理空間の差異による空間と時間の変化

 

人間という集団の原理 :社会集団の中でのImaginary Spaceについて

・差異概念:ある集合(界)に対する個々の意味を見出すという事について

・共通概念:ある界に対する差異概念の補集合の最大公約数として

 

社会集団の中での独立した原理を有する創造物

・お金

・技巧的表現(音楽、詩、言語)

・生物と静物の相互利用

・人間としての目的

・人としての感情

・信ずるという事と責任

・生命力についての偏見的考察

 

・次元間の相互作用

 

後記:

この思考方法は経験を哲学、よりよく考察することによって個人的に得られた一つの解釈である。よく偉大なる哲学者たちがある種の普遍性に辿り着き、その後自殺するケースが多い。所謂、死に至る病というものだ。安心して欲しいのは私はたぶん自殺などしないという事である。ある種の普遍性は私の定義によれば、ただの一つの解釈であって、自ら命を落とすほどに捉われるものではないと信ずる。現実社会の実態が変化する、又はノーテーションする仕方を変えるだけで解釈などすぐさま変わるであろう。幸運にも私がこのような考えに至ったのは最終的に自らのそして同時に人の生命力を信じたからである。私のこの記述はその都度変化するかと思う。暫定的に、というのは個体としての時間の終わりの視点からの中では断片的な、わたし独自の今この瞬間の解釈だからである。論理的思考を男性的なものとするならば、すぐさま心変わりをしてしまう女性の生命力を手に入れることが自死を回避するのに必要なのではないだろうか。人間として世界の一片でも解明したいという事と社会集団の中でよりよく生きていきたいという事は共存できると私は信じる。解明に捉われて心を虚しくしては虚無につけ入れられるだけだろう。一番好きな、ジブリもののけ姫の中でもこんなセリフがある。生きてりゃ何とかなる。そう生きてさえいれば、よりよく生きようとしてさえいればよいのだろう。こんなことを書きながら、私はスパイスのきいたハンバーガーを頬張り、美味しいコーヒーを飲み、煙草をふかす。至福のひと時である。

この思考体系は私の体験の空想という方法による積分と言えるだろう。人間の目的に沿って、建築の分野で、この後、実益性を持つまで微分していくことに挑戦する。