読書感想文; 私と日本建築, アントニン・レーモンド

 私と日本建築の、はじめに、日本建築について、の章を読みました。

 私たちの年代にはほぼない世界なのでゆっくり思い起こしながら読むと、なかなか時間が掛かり、少しづつ忘れていきそうなのでメモとして思ったことをこの場に書き記しておきます。

 

 概観してみての感想として、現代では技術がこの当時と違い過ぎるが、技術を扱う心のようなものは参照すべきことであるように思われました。曖昧なので少し説明を加えたいと思います。

 アントニン・レーモンドが1938年に本著を書き記すまで18年間の日本生活を営む中でこの本は書き記されました。当時の日本についての実態は思い起こすことでしか想像はできない事なのですが、どうやら書き記してある事柄から想像するに、暮らしと建築が密接に関わり合っていたというような想像が思い浮かんでくるのです。日本語の中での花には枯れ方があるでしょう。桜は散る。椿は落ちる。朝顔はしぼむ。そういったことを知識として手に入れるのではなく、生活を営む中で折に触れて親から子や孫へと伝えられていたのだという実態を想像して羨ましく思ってしまいます。個々人は日本に生まれたのだと目に映るものから学んでいくのでしょう。レーモンドは、日本の古来から伝わる造り方に目を向け、その当時の技術に警鐘を鳴らしました。日本には既に知的心的に洗練された美しさがあるのではないかと…

技術は人の心の惰性(快適さ、容易さ、利便性に向かう心)を取り込み、こういった美しさを忘却させていってしまったのが現代だとします。現代にあるものから未来に向かって、この空白を再構築しなければならないでしょう。受け継いでいきたいと万人が願いますが、実質的に受け継げるのは一人いれば良い方なのかもしれません。そんなことも逡巡しました。僅かながら感想から構築的に考えてみたいと思います。

 

 では、どうしたら今ここから構築できるのか、どうやって構築するのか。心の在りようと科学の二つが必要であることは先人たちが述べてきているようですが、先程の通り、現代は心を見失った時代だとするならば、心を先ずは手に入れなければならない。心がない心がないでは単に悪口でしかないのですから、どういった心の手に入れ方があるかということになるでしょう。

端的にまとめれば、現在から人間としてよりよく思い起こすこと、現在に人として没入することであるように考えました。

先人たちの中でも本物だと思われる方々からすればまだまだまだまだ未熟者の私ですが、本物の方々は、結果を後世に残す道中で先ずはやはり心を手に入れたように思うのです。本物の方々は、過去と未来をほかの方の誰よりもよく思い起こしてきたのだと思います。ある種、病的なほどに遣り、病寸前で引き返せると想像してしまうのです。

それだけではただの空想家ですから、現在においてきちんと動く、それも動物のように本能的に瞬間的に持続的にと想像してしまいます。それが学び取ることの始まりのように考えられるのです。

学び取れるようになった方々が次にどうなり、何を求めるか。

素直に強欲に知識や自分なりの正しさといったようなものを求めるのかもしれません。

 

私が想像できるのはここまでです。辿った先で各々、み得るものが異なるのでしょうし、私なりの正しさはまだ出せない。今はひたすらに実直に行動し修行する必要性を感じております。実益性はシチュエーションを踏まえることが大事で、その一例を示しても特殊解にしかならないと考えたので、人が人間になるための辿るかもしれない道のようなものを考え記しました。

 

 

後記:

漠然とした不安を抱えていた時に、ある方が私への助言として、諦めろと言葉を掛けたのを覚えております。恐らく、自分を表現する事を仕事にするなんて、考えても答えは出ないですし、ひたすらひたむきに現在に没入しなければ結果などついてこないと解釈できるのではないでしょうか。欲を捨て無私を得るとでもいうのでしょうか、その状態を通り越してその時をよりよく思い起こすことでしか私という人間はみ得てこないように感じております。