次元拡張と微分縮小の進化法則

ちょっと思い当たる事があるので、次元を合わせて一個ずらしで書きます。


ゼロを無と捉えると全ての次元は無から始まる。

無から伸びていくいくつもの次元の現象世界に僕らは居る。次元間の狭間ともとれるこの世界で相互作用を受ける。
次元拡張の原理は、知覚できてない空白を意識することから始まる。
ただ注意点として、自分の精神体の強度と照らし合わせて、馴染ませながら進むべきだと思う。

無の世界は神さまがいるのか下界からは把握はできない。垣間見るだけ。垣間見て現実に落とし込めたら、本物と呼ばれる。
垣間見て無の世界に取りつかれると、無の世界を覗き込もうとしだすけど、やり過ぎると精神対と身体が落ちる。最悪の場合もある。
動物としての人や秩序としての人間の営みから外れ過ぎるのは良くない。

外れるごとに次元拡張と微分縮小が進む。見えなかったモノが見え、聴こえなかった微細な声を拾えるようになっていく。
次元拡張の後はその次元は暗闇を手探るように進んでいくしかできない。頼りになるのは正確な記憶であり、記憶を回顧することでその次元の情報が増える。増えていく情報を淘汰して次元に独自の原理を見つけると情報の分類をし易くなり、暗闇は晴れていく。

次元間の狭間の世界では当然のように次元間の相互作用が生まれる。
相互作用を理解しだすと理解した範囲で善いと自分で思われることに客観的に進みだせる。自分なりに応えることができる。
理解した範囲というのは自分が意識できる次元の範囲でどれだけの微小世界を把握できたかという総体である。

有限な時間の中で何を選んでどこまでやるかを決めることが大切な事のように思う。
言い換えれば冒険の後にどこに自分は居たいと思うのだろうか。

対話について  非論理性と論理性、加えて垣根を超える瞬間について

・非論理的な事についての話
ある事物、特定の時代の人だったり馴染み深い植栽だったり、に対してより良く思い起こす事をし続けると、ある時、こうなった、こうであるのが正しいんじゃないのかなって心に浮かぶ瞬間がある。
まぁ私は経験上の出来事をその都度分からないなりに諸々度外視して自分の為に言葉にして記録しているつもりなので、私の思ったことに共感や論理性があろうがあるまいが興味はない。要するに上手く説得したり伝える気はない。私の個人史の記述はまだまだ狭く浅いので他人に伝わっても上手に成功の結果に繋がるとは到底思えないのだ。
話を戻すと、ある正しさが心に浮かぶという体験を執拗に続けていくと論理性を超えてそのもの自体に自分が成り代わる瞬間がある。
テトリスぷよぷよや設計をやり過ぎると夢にまでリアルに出てくるようになる感じに近い。そのものに自分の心を映し続けると心が移ってしまう感じが正確な記述かと思う。
心が移り変わってしまうと、それはそれで危険なのだが、そのものがどう動くか動いていくかが目に浮かぶ時が出てくる。私は時に俯瞰してみたり、そのものの視点や五感から感じ取ったり、してしまう。
この一連の空想は、全て私がある事物を想定した時の自己投影と言っちゃ自己投影なのだが、何故か全くの嘘とも思えないという実感が伴う。
私の心の内を正直に話すとこのような事が私が空想と読んでいるものの実態だ。

現実の区別はそれとは別に行うよう努力している。区別が行われない時、空想により「勝手に」区別を横断する時、はある意味、私は社会不適合者の夢想家である。
ある意味といったのは、空想が現実世界においても一つの正しさを持つ際には、勘が当たったというような事になる。
私のこれまでの経験と事実から踏まえると、どうやら今現在から遠い架空の未来に対して空想という手法は有効に成り得るのだと考えている。
もちろん私にしか当てはまらない実感なので、空想でこうした方がよい、こうなるんじゃないかなという際には自己責任で御願い致します。


・論理的な事についての話
今現在において区別というものは、いつの時代も言われているような事だが、根深い事である。書物を読んでも判るが、ツイッターなどのSNSを見渡して区別というものは存在する。
これらは全て情報伝達の対話の方法である。AとBに対して定義をつけ、区別を行い、その中での文法や暗黙の了解という常識などの定義とも組み合わせて情報を発信する。
特に会話の方法について言えば、他人と自分との区別の仕方は人それぞれ持っているだろう。夢想家だけが定義づけに困るだけである。
他人私とをいったん区別をつけると会話が始まる。会話の始め方は二種類あるように思われる。
ジャンプして一気に核心やゴールを伝えるか、隣のお屋敷に伺う様に門を叩いてこんにちは、からゆっくり状況を伺いながら話を進めるか。
今現在の日常会話がこの二種類の方法をその都度使い分けて成り立っているように思う。
角を立てずに上手く使い分けられる人は分別があると言えるのだろう。時に痛快な一言で場を湧き立てる人を何人か知っている。

・垣根を超える瞬間
正直、痛快の一言をタイムリーに出せる人は羨ましい。大学の同期、元同期には絶対信じてもらえないだろうが、空想を患うまでは私も実はこういうタイプであった。
正直、他人の悪口は面と向かって言い合えたら愉快だぜ。と思っている。更に言えば、ユーモア溢れる感じで言い負かせたら最高です。
昔取った杵柄は置いといて、最近、おじいちゃんおばあちゃん世代か年下と話が合う。時間の流れが自然のまま居られて誰かを活かすようなユーモアが溢れる。
同世代はどこかで競争相手だと私も相手も思っていたのだろう。
何が言いたいかというと、人と私の区別をした会話の後、それぞれが自然なまま輝くような瞬間というものがある。一対多数だとまた少し異なると思う。
前提となる区別の仕方は自分の立ち位置と密接に関わっているように思う。私の立ち位置という前提条件を踏み外した言葉を選ぶと相手に届きづらい。懐の深い人だとそれってどういう意味と聞かれることがあるが、、、
ドンピシャな言葉を相手と私の間に置くことを繰り返すとなんとも楽しいもんだ。


建築設計についても全く同じかもしれない。あるいはもっと膨らませてほかの仕事でも似たような事が言えるかもしれないが、ここでは建築設計に絞ってみる。
建築設計は当然建物を扱う。建物を建てる前後には図面(3D)、模型、パースを元にお金やその建物の活用の仕方や理想像といったイメージを副次的に検証し、積み重ねていく。
この三つのアウトプットから現実をよりリアルに夢想する。より良く思い返すことの効果も、本当に多種多様な論理的な区別も、現実をより豊かにする為に人が淘汰していった結果としてのものである。
先人たちはよく書物などの中でこの事に触れる。夢想しすぎて患うほどなので私の実感はあまり当てにならないが、先ずは仕事のスピードが必要なように思う。
スピードがあればどこかしこには引っかかる。余った時間でできるだけより良い対話の方法であったり夢想しておけば良いのだろうと遅すぎる反省をしてみる。
まぁ自分の現況から方向性見定めて努力するより他ないのだけれど、、、
今現在で一番速いスピードは普段通りの感覚でやるに尽きる。焦ると変な方向で努力するので、無理はほんの少しでいいと思えるようになった。
対話を積み重ねていくと、いろいろ混ざり合って区別が付かなくなるようになる。そこまで無心に進めて振り返ると何か正しいような道のりが出てくる。
私は悪い意味でぶっ飛んでいて、スピードを求めてオーバーヒートもしていた。無理やりスピード出すのは良くない。自然と自分と向き合いだした今が一番早く進んでいる。


夕飯食べたら自己作品集やります。

メモ:1h30min、約2500字 
所感:前より自分の中で書きたいことのイメージがいい感じで言葉になっているように思う。ちっちゃいころの読書量からか思い出せば割と一発で戻らず書けるなー。

記憶の日記 3

ふとある人を思い出したのでその人の事を書こうと思う。大学時代に少なくだが交流のあった魅力的な柔らかさを持った同性だ。
展覧会一緒に行こうぜと誘ったのが契機でその後、飲みに出た。
建築の話になる。今の時代は、データを入力すればその人に合った事例を参照でき、提案し、敷地に合わせて変形し、快適でリスクレスで安価な建築を創れるという話である。
そんな時、建築家の建物はリスクという点で、どうして新しさを探求するのか。といったような話が出た。
社会的な意味があまり良く分からないというのは私も当時感じており、なかなかはっきりとは言えない。
私は、こういう見方と心中するから。と私からの視点でいった。
私は恐らく抗いたいのだ。何にかというと曖昧だが、このままの流れで行き着く先をほんの少しでも良くしたいのだ。
闘うということは同時に多分に人を不幸にする可能性を含む。
今も昔も私情から中々、社会的活動さえままならない。平均8時間位活動できているので今後もこの調子で良くしていこうと思う。
人様に迷惑を掛けずに、という身内の言葉をよく思い出す。修行というのは責任を果たす力を養う為にするのだろう。


今は、あるボヤっとした確信が徐々に輪郭を帯び始めた。これ以上は感覚では進めないかもしれない。
恐らくこれからは知識をまとめることと溢れてしまう私情のコントロールの格闘になるかもしれない。
目的を無理やり書くとすれば、主にこの二点の為に私は書いている。

私的世界定義 1_1 ー 次元間を横断する因子についての考察 ー

考察;

すべての物事は突き詰めれば解らない。体感的になんとなく分かることはあるかもしれないが。石が、アゲハ蝶が、竹笹が、他人が、自分が本当に何を考えているのか解らない。すべては説明不可能な霊的な存在だ。そうなると八百万の神が出現する。そうであるならば、自分の中にも神のような説明不可能な存在や力のようなものが働いていると言える。感じ取れる全てのものに対して私なりにより良く観察を進めると、何やら霊的な力がそれぞれ影響を与え合っていそうだ。しかし霊的な力を有する存在はその瞬間には物理的に「そのまま」存在している。ならば霊的な力が存在に影響を与えるというのは影響を与える事が可能な何かに変換されているからではないだろうか。ここでは変換し何かと何かの間を架け渡す力を総称してProjectionと呼ぶ。Projectionの語源は錬金術用語まで遡る。錬金術において金を創り出す、A+B→Cを創り出す不可逆的な反応(→)である。

全ての物理的な事象と精神的・意味的事象は相互作用を果たす。例えば、私が石を発見し、研げば旧石器時代のように使える、と考える。この一連の誰しも思ったことのありそうな発見には、対象を石に合わせる物理的な行動、小学校で学んだ歴史の知識への参照・連想、が含まれる。この時、私の眼球の操作から…という様に分解せずともこのままの文章の中でProjectionが行われている。物理的な物体を観た事から空想的な回想・発見へと変換している。(更に言語化している。)何が言いたいかというと、物理現象と精神・意味世界は私の経験上、何かしらの力でもって繋がっている。前提としてそれぞれの場所を区別して置いているが、区別した場所(ある集合による界)をProjectionによって変換し横断することとなる。もっと易しく言えば、人間は何かと何かを区別して整理整頓、秩序立てるのは自明かと思われるが、区別した途端、逆説的に、区別を横断しようとする力が無意識・意識的に現れる。Projectionに対して無意識だと区別の前提を形作る界の中で集団の流れに身を任せる力となる可能性が高い。意識的だと流れに抗うことが可能性として高い。両者とも経験から何となく考察した結果である。

 

ここまではただの心ない経験の考察からの定義である。ある信じられる目的にそって続編に記述する。

 

モノの声についての経験的思索

言葉が生きる瞬間は何とも言えない。制限としてあえて、自身の経験に言葉が追いつくような感覚と捉えると、言葉が生きる瞬間の言葉の強度は論理的には自身の経験に裏打ちされている。

論理的であっても素直な欲求であっても、言葉を未来へ投げかけるとき、現在からみた嘘が多分に含まれる。誰しもが幼き日に夢見た願望と同じ心持である。追いつきたい、追い越したい、ああなりたい。こういった瞬間にも言葉が生きる事は経験上あった。しかし、今の私に足りないのは地に足をつけることでありそうなので、そうであるならば現在地を述べることしかしてはならぬだろう。嘘はいけないと人は無言で思う。しかし、もう一歩踏み込んで嘘をつくならば未来において実現しなければならない、というのは極論過ぎてどうにもいけ好かない。言葉は非常に便利なもので、嘘と本当のグラデーションについても実に多種多様な表現がある。この瞬間に誠実な表現を行えば良いではないか、と思うが、最近の直感として辞書や先人達の文章にある言葉の使い方がなくなってきている。誤読が多い。多分、ある集団におけるそれぞれの経験の持ち寄りがその集団のなかでの多種多様な言葉の定義を生み出しているのではないだろうか。切り取った集団ごとに会話の成立の仕方が異なるのが実感としてある。更に個人的な志向として、こうして私が嘘をついたとしても私の嘘を元に私以外の他の誰かが実現してしまえばそれで良いように思っている。

話が脱線したので元に戻す。私は今回の日記で別な地へ訪れる前に現在地を本当と嘘に分けて記述しておこうと思う。要するに今の経験と経験から朧げに見える次の目的地を予測したいのだ。

アントニン・レーモンドの読書感想文でモノの声について軽く触れた。私の関心事であるのでどうにか言語化出来ないかと思索し続け、自身の経験から、どうやら正直に話せる範囲と、分かっていないけどこうかもしれないという範囲に分かれた。何かの本を読んでも似たような実感を持つかもしれない、本の著者や書かれていることや想い、生き様をより良く思い起こす事が出来るのはあくまでも自身の経験から想像した事象の投影に過ぎない。経験から想像が及ばないことなど自己に存在はしないのだ。私はこう考えてしまう性質なので、あくまで私の思考は自己の経験に根差させたいとブログを変えてから実践している。

・経験的な本当の事

物体の声という霊的な力、存在を仮定したとき、直感的に正しいと思う。他者の作品を体験し、より良く思い起こす事によって、制作のプロセスを調べると、どうにも霊的な力が働いていると思われる瞬間がある。

加えて、建築のプロセスにおけるアウトプット(図面、模型、パース)においても同じことを感じることがある。建築のアウトプットは縮尺の決定や射影の方法の決定により、実際の建築物とは二次的な創造物となる。縮尺や射影の論理的なルールを自身の経験から、よりありありと体験を想像する。記述されていない現象を思い起こせるまで仮定や観察や分析を淘汰してみる。図面を観て、施工方法の難易度から施工誤差を想像し、雨の流れを想像し、この雨仕舞は危なさそうだと確かに思う。

・思索的な嘘の事

未来において本当にそうなるかは別として、さらに何年持つだろうかと想像する。メンテナンスにいくら掛かるか、一番取り換えの早いシーリング材などから想像を膨らませていく。

 

個人的な投影(最初はただの思い込み)が淘汰され、何かを観た時にある種の正しさを持つ状態と呼べるまで研磨する。

自身の経験には、体験した事と見聞したものを調べありありと思い起こした事の二つに分けられるように思う。後者の例として、近年できた丸の内のとあるビルは、ファサードについては比較的容易(安価)に取り換えられるように設計されている。純体験をした設計者はもっと踏まえているが、理由として、躯体とファサードのそもそもの耐年数の違い、災害・風化による劣化の違い、技術開発のスピードの違いなどが想像できる。前者の例として、あるコンセプトを特定の敷地に設計する際に二枚の図面がその縮尺においてこちらが良さそうだとなる経験があるだろう。図面検討の量や質によって見えるかもしれないし、経験を淘汰した見識によっても振れ幅が見えるのかもしれない。

 

・目的地

習うことと慣れることをバランスよく考えられるようになりたい。私の斜に構えたような想像力が実態においてどのような効果を持つか。

 

 

後記:

1h20min、1800語、だんだん言語化スピードが上がっているのが楽しい。

設計の仕事もスピードが求められる。設計料から逆算すると、基本設計は2Wから1Mで実施にこぎ着けなければならない。この期間に一人で3案しっかり作れるスピードを持てれば比較検討・実施のスピードが分かるので通りやすいのかもしれない。これは元同世代からの見聞なのだけれど、所属する会社の理想に近づく為の設計スピードがある人は重宝されるし、周りから甘えられる。個人的にこういう仕事で甘えられた時に大事だと思うのは、分業の仕方から責任の所在をはっきりさせて(できるか、できないか言わす!)できなければ途中からの仕事を自分の仕事にして給料を上げて貰うのが最良かと思った。理想は先方に最良の結果をチームプレーで持っていくことなのだけれど、実力がいるし、その時のそれぞれの精神状態もあるから、理想通りにはいかない。こういう瞬間を見極めた時点で自分を守りに入らないと苦しくなる。